2018825

お骨をずっとそばに置いておきたいけど、、、

お骨をずっとそばに置いておきたいけど、、、
「そろそろお墓に納めなさい。」周囲の声がとても気になるんです、、 と、 そのような言葉をかけられる。

お墓の概念、、ってなんだろう。
お墓の「カタチ」ってなんだろう?

魂が旅立ち、
肉体を荼毘に付した後に現れ残される遺灰や遺骨を納める場所、、、なのだろうか?
土葬の場合は、、、?
肉体を自然に返した場所が墓となったのだろうか?

供養や成仏を願うために墓を作る(建てる)のだろうか?
供養や成仏の概念ってなんだろう?

誰のための、、なんのために、、、あるのだろうか?
お墓の固定観念はどのように教えられ、どこから来たのだろうか?

遺灰や遺骨の「取扱説明書」など。。ないようだし。。

とりあえず、、「お墓に納めなきゃ、、いけないよね。」そんな固定観念(取扱説明)が一人歩きする、、、

昨今は樹木葬、宇宙葬、散骨、手元供養、永代供養、墓じまい、、云々かぬんと、、言葉と様式が一人歩きする、、、、

村から町へ、そして大都会へ、
大家族から核家族へ、そして一人暮らしへ、、
看取られ死から孤独死へ、

生活圏にない山の上の霊園、縁もゆかりもない墓地、ロッカー式納骨堂、マンション型納骨堂、大都会一等地霊園。
見晴らしや便利は良いけれど、、、
共に生活し管理できる墓、、できない墓、、、できなくなってしまう墓、、
墓じまいをして永代供養。
時を経て撤去される無縁墓、、結果の永代供養。
管理できないから永代供養。。。。。

家族のあり方、社会との繋がり方、、距離感、、、

遺骨を託す側と、託される側、、永遠の管理は容易いものではない、、、
それぞれの都合、響の良い呼称に寄りかかる。
響きの良い呼称は、、大切なものを仕舞い込むトランクルーム化となっていないだろうか?
繋がる思い、繋げる思いは、、どこまでか、、、

故人との関係性をどうしたらよいのか、、、、
偲びたいのか、、成仏してもらいたいのか、、清算したいのか、、
気持ちよく、、これから付き合うにはどうしたら良いのか、、、
はたまた、、忘れるには、、

人それぞれで様々な思いがあるのは確かなのでしょう。

ただ言えることは、、
墓という表現は
残された人々が、心を軽くするために、故人とのコミュ二ケーションを繋げるために、「過去」「現在」「未来」の先に希望をつなげるためにあるのではないか、コミュニティーの一部として責任を持てる範囲内で表現した場所であるということでしょう。
残された者が「故人と共に日常生活を営む場所」としてのカタチが存在する意味があるのでしょう。
どのようなカタチであれ、様式であれ、残された人々の気持ちが希望に満ち溢れ救われる方法が一番なのだろう。

「墓」は遺骨や遺灰の置き場所、故人の居場所でも、供養する場所でも、成仏する場所でもなく、
残された人々と旅立った人々を繋ぐ、日常生活の一部であり、中心でもあることが、大切な表現なのだろう。。。

概念かのごとく「固定観念的な取説」に囚われず、、自由でフラットな「ときめく表現」の観念を見つけることなのかな、、、と思う。

IT情報革命の誕生で知識の自由度は増え、選択肢も広がったが、、、
旧態依然の社会や組織の盲目的な概念からの解放は道半ばなのかもしれない、、

私は、供養のために、成仏を願うために作っているとは感じていない。
大切な存在や家族と共に生活をするカタチであり、共に生きる先への希望を表現するカタチを共に模索しているように感じる。
そのカタチは、希望を先につなげるための、、身につける小さな「墓」もあって良いのなのかもしれない。お守りのような感じもする。

表現し続けることは、私自身の先への希望でもあり、道を確かめるための修行なのかもしれない。
やがて肉体は朽ち果て、、意識、魂はどこへやら、、
残された者が、その行き末を定めることになるのだろう。

地石浩章