●メモリアル・ジュエリーの歴史  -1-No.2-3-4-  
   
  メモリアル・リングには故人の遺髪を納めるのが通 例で、髪は中空のフープの中か、円や楕円の金製のベゼルに水晶を被せ、その中に入れた。髑髏と骨の交差をベゼルの裏にエナメルで描いた遺宝箱のような指環 が、17世紀後半の標準的なデザインとなる。遺言によって、葬儀で縁者に配られるメモリアル・リングは、指にはめるだけでなく、首にかけたり、リボンで手 首につけることもできる。イギリスのチャールズ1世が1649年に処刑されたあとは、そうした指環が議会の罪を問う抗議の意志表明となった。18世紀後半 には王党派が、処刑されたルイ16世とマリー・アントワネットを追悼する指環をしてブルボン王朝への支持を示せばボナパルト主義者もナポレオンの死を悼む 思いを指環に託した。メモリアル・リングは18世紀には隆盛を極めた。
 サミュエル・リチャードソンの小説『クラリッサ・ハーロウ』(1747ー48年)は主人公の名を冠した作品であるが、このなかで恋に破れ失意のあまりに 死を決意したクラリッサは「Cl.Hのモノグラムを銘し、わたしの髪を水晶に納めた指環」を贈る相手の名を遺言に記した。こうした指環は宝石商が在庫を用 意しており、デザインも標準的なものが定まっていた。水晶か色石をつけたベゼルに遺髪を納める場合は石の下に入れ、フープには名前と命日を刻んだ5本の巻 紙形の装飾がなされ、そこに未婚の者は白既婚の者は黒のエナメルで仕上げをした。
 1860年以降は、故人の肖像をミニアチュールや、ガラス絵、金の型押しによって描いたものに加えて、写 真も用いられるようになる。遺髪はそれまで以上に珍重され、髪を用いた多様なデザインの図案帳も刊行された。
 『英国の指環』を著したイギリスの歴史家チャールズ・オマンによれば、「モーニング・リング(追悼指環)が廃れたのは、紳士気取りが庶民に蔓延したせ い」であった。慣習が下々にまで広がると社会の指導的立場にあった人々はそれを疎んじはじめたようで、事実アルバート公が無くなってからというもの、王家 はもとより貴族の間でも、ほとんどメモリアル・リングは見られなくなる死亡率が低下し、死はさほど身近とも、また差し迫る恐怖とも思われなくなったことも あるだろう。こうした気分の変化にともない、ははを悼むものを例外として。メモリアルリングは廃れ、第一次世界大戦の惨禍でさえ、その復活をもたらすには いたらなかった。
 こと日本ではお守り袋の中に愛する人の陰毛をいれ肌身はなさず持っていた。
 
   

 
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白エナメルのモーニング・リング。
[A]巻紙形の装飾はロココ美術の影響。名前と没年(1756年)を刻んだ。
[B]ベゼルのダイヤモンドの下に遺髪を納め、名前と没年(1763年)を刻んだ。
いずれもイギリス/18世紀
 
   

 
   
[A]壺形のベゼルの裏側はガラスの蓋が付いたロケットになっており頭髪を納めた。
[B]頭髪の細工によって木を描いている。
イギリス/18世紀
 
   

 
   
遺髪を使ったモーニング・ブローチ。
髪を柳で表しその下に壺を描いている。
背面にも市松模様に編み込んだ毛髪を納めた。
イギリス/19世紀
真珠博物館蔵
 
   

 
参考文献
穐葉昭江『ジョージアン&ヴィクトリアンジュエリー』穐葉アンティークジュエリー美術館・1995年
東京都庭園美術館監修『指輪 古代エジプトから20世紀まで』淡交社・2000年
 
   
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